この人は毒親に育てられたんだろうかと、穿つ癖がどこかにあります。
毒になる親と言うのは、なぜか絶滅しないモノで。
子どもの成長を促進するどころか、阻害したり疎外して心外に侵害したりするのですが。
十中八九、理不尽の権化なので。
子どもはそれを正当化するのを常とするわけです。
それを、心理学用語で言えば『合理化』と言いまして。
自分自身が納得するための防衛機制と、捉えるのですが。
これは、解決とは程遠いモノで。
そのときに本気で納得していても、毒親以外と接したときには全く当て嵌まらないことが多いわけでして。
その際に、毒親に育てられた子どもはアイデンティティが崩壊するほどのショックを受けるわけですが。
そこで毒親の理不尽さに耐えることや切り抜けることに慣れていると、そこでも合理化を始めてしまうのですよ。
例えそれが、さらなる周囲との軋轢を生んだとしても。
そしてそれが、自らの破壊へと結び付いているとしても。
そして、頭のいい人ほど。
合理化の危険性に気付いていながら、変えられない自分を責めているような気がするのです。
責めないほうが、いいのですけども。
荊に絡まった兎のように、そうしないように動いても食い込むだけと言うことが分かるのか自然に絡まることを選ぶようで。
じゃあ、どうするか。
助けを、求めるべきでしょう。
誰でもいいのです。
嫌われるとか変に思われるとか、考えてはなりません。
声をあげましょう。
声さえ出なくならないうちに。
絡まった荊を、自分で解けはしませんが。
外からなら、できるかもしれません。
決して、諦めてはならないのです。
手遅れになる前に、助けを求めるべきです。
助けを求めなくても助かる人は、幸運なだけです。
大抵の場合は運が悪いと思って、助けを求めるべきです。
自分自身だけで何とかなってきたから大丈夫、と言う保証はありません。
むしろ、他の人よりも消耗しているのに何とかなる確率が高いなんてなぜ言えましょう。
自分が助かるためのことを、するべきです。
自らが手遅れになるために合理化して納得して、自分が死ぬための大義名分を探さなくてもいいのですよ。
助かってください。
決して、諦めないでください。
……と、僕は思うのです。
すみません、僕としたことが熱くなりすぎました←
それに僕は。
誰に対して、こんなに熱くなったのでしょうね。
読者さんに?
あなたに……?
それも、あるでしょうけども。
……いや、もう答えは明らかなんですけど。
やっぱり、疲れているときに書くべきではないですね。
文章に纏まりがなくなりますし、言いたいことしか書けていませんし。
でも。
こんなのもたまには乙でしょうと、少しだけ自分を甘やかしたい気分だったので……まぁ、いいや←