ルーン使いの言の葉

ごゆるりと、ゆるゆるなさいませ。

2014年06月21日

自覚

よく、責任を負うことを嫌がる人が多いですが。
皆さん、自由落下ってお好きですか?←

いやぁ、フリーフォールって一種の、無重力体験ですから。
強ち間違いではない気がしますが――こほん。

まぁ、それだって一応、重力に(宇宙なら、万有引力ってトコでしょうか)支配されているからできることでして。
酸素は老化を促進しますけども、だからと言って嫌気呼吸に切り替えられるほど酸素がイヤだと言う人はいないでしょうし。

つまり何が言いたいかと言いますと。
ある程度、責任を負ってなんぼの自由なんじゃなかろうかって、そんなことなのですー

まぁ、これは今回のブログ記事の趣旨からは外れるんですけども。
僕、サルトルにもかなり好感を持ててまして。

自由と責任の相互関係を主張したのは――物事の二重性や、相反する表裏一体の現実をまっすぐに見つめるのには――うってつけな、モノだったんじゃないかなと。
自由だからこそ、責任を負うと言うのは……そうですねぇ。

分かりやすく言えば、自由作文でしょうか。
『自由に書きなさい』って言われて、ポカンとしてしまったかたは多いんじゃないでしょうか……?

何のネタもなく、何の趣旨も記されず、ただ……自由に書け、と。
中庸な生き方をしてきた人間にそれを要求するのは、当人にとってはかなりの苦痛やも知れないですねぇ〜

因みに、この『自由に書きなさい』ってモノには、すごい矛盾があるんです。
だって、その出題者の意にそぐわない書き方をしたら、減点されるんですから(苦笑)。

本当に自由に書いていいなら、縦書き横書き問わず、言語も問わず、字数も無制限で、1文字書いて終わっても、時間の許す限り書いてもいい筈なんです。
なのに、大抵の『自由に書きなさい』ってのには、出題者は無言の圧力をかけてますね――言いたいこと、分かるよね?――と。

その、どこが自由でしょうか。
……サルトルの、自由と責任の相互関係には、そんな皮肉も読み取れますが――あぁ、これは学術には関係のない僕の持論ですので、鵜呑みにしないでくださいね(汗)?

で、話を戻しますね。
えっと。

僕、タイトルに『自覚』って記したんですけども。
これを敢えて、読み下してみましょうか――僕なら、こう読み下します。

自由である覚悟、と。
自由のための覚悟、と。

自由になる覚悟、と。
自由になるための覚悟、と。

――自覚って言葉ほど利己主義者を戒める言葉って、そんなにないとは思いますね。
「いや、自分はエゴイストじゃないし」って思われる方もいらっしゃるとは思いますが――いやぁ、まぁ――うん。

僕は縁がないのか、それとも残念な生き方をしたからか分からないですけども。
エゴイストって、そんなにダメかな――って、思うわけでして。

いや、それで他人へ危害を加えることになるってのは、ダメですよ?
でも――僕はその理由を、相手本意に考えることができないです。

相手が傷付くから。
そうすると僕は自分を許せないから――と、そうやって何でも――自分自身にフィードバックさせている自分がいます。

ところが、相手本意に考えれば、どうなるでしょうか?
……どうやってやるんでしょう?どうやって証明しますか?

相手がイヤな思いをしたと、しましょうか。
それでその思いをした原因を取っ払うと。

相手がそれで、喜んだと。
……んー、どうでしょう?

まず、イヤな思いをしたときに原因を取っ払う行為に移った理由はなんでしょうか?
相手がイヤな思いをしたから――いや、だったら相手が自分自身で解消すればいい話で――もっと言えば、その過程を支えるくらいでも、よかったんじゃないでしょうか?

で、相手が喜んだと。
……だから、何でしょうか……と言う話でして。

そのとき、自分自身の感情は関係なくて、相手が喜んでくれるなら――そんな、利他的なことをおっしゃるかたも、多いですけども。
そうやって相手が喜んだことで、その後の行動を起こすのは誰でしょうか?

自分は道具であればいいのだと、極論ですが――そう言っているのと、変わらないんじゃないでしょうか。
道具……んー、道具だって、その性能あってのソレですから、きちんと存在意義はありますが。

道具は、決して。
自分自身で、行動を起こしませんね――ましてや、相手の感情に動かされることなんて――ありません。

これは、『自分は道具であればいい』と言う主張に矛盾しますし、同時に『相手を思っての行動』に対する完全な利他主義の矛盾とも、言えるでしょうね。
ゆえに、相手本意で行動はできない――と。

荒っぽいですけどね。
ですがこれは、利他主義であることを否定するのではないんですよー

相手を思っての行動は、すごくいいことなんです。
ですがそれは、自分自身がよかれと思っているからだ――その、『自覚』があってこそ成立することだと、言うことですね。

あ、因みに。
何でも自分に原因とか責任をフィードバックさせると、息が詰まりますが――効用も、ありますよ?

まず、人のせいにしなくなります。
自分の関わることで何か起こったなら、自分のせいだと、思えます。

だからこそ、同胞意識が生まれます。
持ちつ持たれつの関係は、それでやっと構築できるんじゃないでしょうか。

小さな子が、「イヤだ」と言う時期がありますね。
第一次反抗期、ですけども。

あのときに、それを受け入れられなかった子は、かなり可哀想ですね。
これから大きくなるような小さな芽を、摘まれたようなモノです。

あのとき、それを尊重してくれる人がいたなら。
自分が自分であることを、認めてくれる人がいたなら――利己主義でありながら、相手を思いやることもできるだろうに――そんなことをたまに、思います。

まぁ、話はかなりグチャグチャしちゃいましたが(苦笑)。
僕の言いたいことは、伝わったでしょうかねぇ……いや、さっぱり分からなくてもいいですよーそれくらい、整合性が滅茶苦茶なモノになっちゃいましたから←

んー……簡単に結論を申すとするなら、こうですね。
えっと。

人を助けるのは、自分が助かってからにしましょう。
話はそれからです――ってことでしょうか。

そのひとつの助けに、自覚する――ってことが、あるんじゃないかなって。
僕はそう、思うわけで。

まぁ、僕がそう思うだけで。
真っ向から否定されて、ぐぅの音も出なくなるような経験もしたいなぁ――なんても、思っていますよー?

んー、そのときには間違いなく。
僕の人生を大きく変える、かけがえのないモノになる……予定ですが。

あまりにも変わってしまって、即死かもしれないなぁそのときは――なんて。
そんな戯言を申しながら……今回のブログ記事を、結んでいこうかなと。

今回はエゴ丸出しの、ブログ記事でしたが。
最後まで読んでくださった皆々様に、最上級の感謝を、申し上げます。

ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします♪
posted by バロック at 18:21 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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