ルーン使いの言の葉

ごゆるりと、ゆるゆるなさいませ。

2014年06月09日

満たされたときか、欠けたときか

とある偉人が言ってた言葉で、感銘を受けたモノがあったんですけども。
それが――人を愛することは幸いである。そしてその人を失うことも、次に幸いである――ってモノなんですけども。

これは端的に、恋愛や慕情を推奨するモノではないとは、思うんですよね。
何故なら、人を愛する相手は偏に恋人だけでは、ないからでして。

家族や友人もそうでしょうし、クリスチャンであるならば敵でさえも、愛の対象ですね。
僕はクリスチャンではないんですけども――アガペーの思想は、分からなくもないです。

似たような思想で、老荘思想がありますけども。
あの思想には、兼愛ってのがありますね。

分け隔てのない愛ってことで。
だからこそ、儒教のような身内同士のソレを否定した……ってことで。

僕はどの思想も、正しいとか間違いとかは、思わないですよ。
ただ――自分と相容れるか否か――それだけです。

僕は仏法哲学が好きだ、と言うお話はしたと思いますけども。
仏教にある――愛情を執着と考えて、それは悟りを開く際には邪魔だ――と言う考え方には、頷けないんですよね。

煩悩即菩提
生死即涅槃

……ですけども。
これから考えると、悟りを開く前には予め煩悩は経験しておいた方がいいんじゃ……なんて考える僕は、異端でしょうか?←

みたいな。
まぁ、話を戻しましょうか。

……どれくらい戻るかと言いますと。
タイトル辺りまで、戻ります〜♪

人って、どんなときに幸せだと思うんでしょうねぇ……?
大抵のかたは、端的に言えば『満たされたとき』と仰ると思うんですけども――そこで、前文の偉人の言葉に目を向けようと思うんですけども。

僕は、『欠けたとき』もかなり、その人にとっては幸いだと思うんです。
いや、つらいでしょうけども。

つらさにも、色々とあると思うんですよねぇ〜
恨みや憎しみを“与えられて”得るつらさと、夢が覚めるように“奪われて”得るつらさ、ですね。

前者は幸せだとは思わないですけども。
後者は、どうでしょうか……?

これは僕の個人的な経験則ですから、皆さんには当て嵌まらないかもしれないんですけども。
んーっと。

個人的なモノを書くとあまりにもダイレクトですので、抽象的にしますけども。
そうですねぇ……

人の楽しいと思えることが楽しめず。
人の哀しいと思えることが哀しめず。
人の苛立ちが自分には当て嵌まらず。
人の喜びが、自分には当て嵌まらず。

そのズレから、他人とは違うアイデンティティが“得られ”て、確立して。
そしてそんな僕が――平安貴族みたいに移ろいやすい僕が――「あぁ、この人だ」と言う人に出会うと。

やり取りをしているときは満たされている感覚があって、普通なら『それを失うのが恐い』となるんですけども。
僕は寧ろ、「これを失ったら、僕は何をしでかすんだろう?」と、その次を考え始めます。

あまりの激情に織田信長みたいなことをしでかすのか、それとも萎らしくなってしまうのか。
慟哭するのか、心を亡くすのか――色々と考えますけども。

この、『欠けたとき』を想像する僕自身、結構楽しいですし。
実際、『欠けたとき』は――楽しくはなくても――幸せだと思います。

満たされたときには思わなかった、もしくは思えなかったことが。
欠けたときには、いくらでも思えるでしょうし――幸せだった頃の想いが――走馬燈のように、過るでしょう。

それを考えると。
『欠けたとき』も、悪くないなぁって、思うんですよね。

んー……どうなんでしょうねぇ。
これが、僕のブログ記事を読んでくださる皆さんにどう写っているのか、かなり気になりますが。

……執筆、したいですね。
なんだかんだで、できてないです。

やりたいことは、多いですけども。
一生のうちに全てができれば、いいかなぁって、思っています。
posted by バロック at 10:56 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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